神の存在

文化の日なので。

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もはや,それが当然の一日となった,行きつけカフェでの晩ご飯。今日も生ハムのピザである。。

店の外では,そろそろイルミネーションも輝き始め,まだまだ早いがクリスマス〜年末の雰囲気を微妙に漂わせ出した。この店,店の奥に薪ストーブのように燃えているように見えるただの飾り(笑)があるので,これも微妙に雰囲気を出している。

さて。前回,ちょいとマジメなことも書いてみようかと言ったので,書いてみようかと思う。

唐突だが,師匠の師匠がクリスチャンである。しばらく前に亡くなられたのだが,教会でのお葬式は初めての経験であった。

そんな師匠の師匠にはあまり会話したことはないのだが,「神は自分の中にいる」ということを度々仰っておられた。この台詞自体は,しばしば聞く台詞ではないかと思う。

神とは,全知全能であり,例えば乗っていた飛行機のエンジンが火を噴き,機長が「不時着します,死ぬかも知れません」と言うような状況に陥ったとき,「助けて〜」と願う相手が神である。神とはそんなもの。

一方で,そんな神に助けてもらいたいならば,普段から良い子にしていなければならない。良い子にしていると,神様は助けてくれる(かも知れない)のである。

もし,何気なくコンビニに入った時,その店がまったくの無人で,防犯カメラもなく,万引きしようとなにをしようとまったく絶対にバレない,という保証があったとしよう。そんなことはないけども。そのとき,あなたはどうするか。

「絶対に誰にも分からないなら,万引きしない方が損だ」と考える人は,信仰がない人である。「いや,誰も見ていなくとも,神は見ている。神は間違った行いに罰を与えるだろう」と考える人は,信仰のある人である。

自分が何をしたか,そのとき何を考えていたか,何をしようとしていたのか。もしそれが他の誰かに絶対に分からないとしても,すべてを知っている人物がいる。それは自分である。

自分だけは,自分が何をしたのか,何をしようとしたのか,すべてを知っているのである。自分にとって,全てを知っているのは自分である。言い換えれば,神とは自分だ。

一方で,乗っている飛行機が落ちそうな時,「か〜み〜さ〜ま〜」と祈る相手は自分なのかと言われれば,そうではない。はて,神とは。

人間は誰しも,両親から生まれる。最近見たガンダムは,両親から生まれなかった人物が主人公となっていたが,一般的には人間には両親がいる。そして一般的には,両親は子供に「行儀よくしなきゃだめ」とか「勉強しなさい」とか「ちゃんとしなさい」とか言う一方で,コケてうわーんと泣いたときには,「ヨシヨシ」と助けてくれる存在なのである。

「行儀良くしなさい」の代わりに得られる「ヨシヨシ」は,人間が人間として育つ上での基本的条件なのだろう。よって,神はいつしか父と呼ばれ,人間の両親となっていった。神とは,人間が幼い頃にすり込まれた親という存在の投影でもある。オトナになって,両親がなんでも出来る大人ではないということに気づくように,人間も,神よりも科学を信じつつある。が,人間が両親から生まれるものである以上,神という存在はなくならないのかも知れない。たとえ乗っていた飛行機が落ちるような状況じゃなくとも。

さて。

自分という存在の中において,全てを知るのは神である自分であった。一方で,神とは,自分の力ではどうしようもなくなったときに助けてくれる,幼い頃の親の記憶の投影でもあった。神とはこうした二面を持つとも言えるが,考えようによっては,それはたった一つのものかも知れない。キーワードは「認識」である。

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長くなった。続きはまたいずれ。

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8/26

さて。

教祖。ここ数年、ずっと興味のあったテーマである。いきなりだが。
教祖。それは、そのもの自体やその周辺を含めて、様々な興味を引きつける対象である。
なぜ教祖になったのか。宗教とはなぜある種の人たちを引きつけるのか。宗教の中にあって、教祖とはいかな存在か。また、その宗教における組織とは、何を目的に、どのような形態を持って成立するのか。

ある意味では、組織の歴史にあって最も古いものの一つがこの宗教組織である。ま、組織という面から見れば、それは他の組織と同じようなものなのかもしれない。いやそれよりも、興味の対象になるのは、理性というものが行き渡った現代においても宗教がある種の人々を引きつける理由、その際の教祖の役割である。

はてさて。また唐突に妙なことを言い出した。

、、そのようなテーマに取り組む前に、一つ考えておかなければならないステップがある。それは、神の存在証明というテーマである。

読んでいる人にはあまり展開の見えない今日のブログ内容だが、気にせず続けたいと思う。

ウィキペディアその他によると、神の存在証明とは、理性によって神の存在を証明する議論であるという。18世紀に至るまで、西欧で神学が科学と不可分のものであったことは、少し歴史を知っているものならば知っている。そのような状況の中で、神の存在を論理的に証明しようとした当時の議論は、現在から見れば、容易に納得できるものではないと思われる。

要するに、現代における神の存在証明がテーマである。断っておくが、これを書いている本人は別に宗教かぶれでもないし、特に神の存在を信じているわけではない。ほとんどの日本人と同じくほぼ無宗教であり、宗教というよりは科学を信じている。

にも関わらず、現代においても新興宗教にはまる人たちも多くいるのであり、彼らは神の存在を信じている。ここでいう「信じている」とは、論理的根拠はないものの、願望を含めて「信じている」という意味である。現代の新興宗教、オウムからパナウェーブ研究所まで含めていろいろあるわけだが、彼らを「論理的でない」「○○○がオカシイ」などと片付けることは間違っている。そこには、かれらがそうする理由があるはずだし、それはおそらく、合理的な理由のはずである。

ちなみに先日、夕方6時すぎに院生棟を出ると、妙な二人連れに声をかけられた。一人は白人で、もう一人は日本人。白人のほうがなにやらチラシを手に、流ちょうな日本語で声をかけてきた。

「英会話に興味はありませんか? ワタシ、神の愛に従ってこういうことをしているのです」

科学的思考が世に広まり、科学が発展すれば地震だって予知できるようになるだろうし、異常気象もコントロールできるようになるだろうと信じられている。そんな現代にあっても、宗教は絶えることなくはびこっているのだ。

「そんなことに興味を持ってどうするの」という問いかけは、あえて無視したいと思う。特に必要があるわけではなく、純粋に好奇心からこんなことを書いている訳で、それ以上でも以下でもない。ただし、読んでいて微妙に興味を引くものは書きたいと思っている。

さて、いくつか考えられる現代の神の存在証明、あるいは「信仰」の理由について、次回から軽く取り上げてみたいと思う。

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