さて。
新しい携帯で初めて撮った写真。なんだか,かなり画質が良くなったような。
世の中,厳しいことばかりである。特に,大学などという世界にいると,いろんな不条理に遭遇するわけである。
しばらく前に,某大学のある研究科では,ある意味では大問題が起こったわけである。このご時世,厳しいのは院生だけとは言わないが,例の東北大での院生自殺事件や,京大,慶應などでも似たような事件は起こっている。そして,表に出てこない事件はもっと多いだろう。そんな,表に出ない「似たような事件」の一つ。
ここは週刊誌の誌面ではないので,こういった話はできるだけ書かないように努めてきたわけである。だがそろそろ,プライバシーに配慮した上で書いておいても良いように思う。
中堅以下の大学では内部の院出身者が教員となる例はまれだが,ある程度のランクの大学では,内部出身の教員というのはあり得る話で,大学によっては,内部出身がほとんどを占めるということもあり得ないことではない。その場合,校風であるとか,教員の入れ替わりが少ないことによるメリットというのはある。特に,学部教育に力を入れるためには出身校への思い入れが有効に働くのは間違いないところ。
ただ,そうした内部採用が一般的になってくると,当然のことながら教員の研究のレベルは下がる。特に,例えば査読付き論文何本とか,そういった外部一般にも分かりやすい形での業績には注意が払われなくのである。
一方で,内部採用には内部採用の基準がある。クローズな徒弟制度の中で判断される人格や能力,あるいは,学内だけの研究会,学会での評価。学内誌での論文の評価。そうしたものが,伝統的に行われてきた内部採用での採用基準であった。
だが,こうした流れに変化が訪れたとき。特に内部採用されてきた教員には,外部の査読付き論文であるとか,そうした変化に対応できない部分があるのではないか。
博士論文の審査にしても,伝統的に行われてきた内部での基準はあったのである。それは,質的なレベルに関しては指導教員への信頼に基づいたものであった。しかしそれはどんなものであったにせよ,質的な基準に関しては,例えば査読付き論文が何本だとか,外部にも通用する一般的な基準ではなかったのである。特に,自分が内部の基準で選ばれてきた教員からすれば,いつのまにか進行していた外部基準の採用には,まったく対応できていなかった。というか,気づいてさえ居なかったし,気づいていても,何も出来はしなかったのである。
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何が正しいのかは分からないが,嫌も応もなく,例えば教員の採用に関しては「博士号を持っていて,査読付き論文が最低1本以上」,あるいは加えて査読付き論文のレベル,本数,教育経験の有無など,外部の基準が標準として固まりつつあるのである。さらに言えば,問題の根源は,こうした基準の変化に対応できない部分にあるのであって,問題の解決には,本来はこの部分へメスを入れることが必要である。それが不可能ならば,今後そのようなことが起こらないように新しい基準に対応できる教員を採用すべき,ということになる。その意味で,ここ数年の流れは正しいのだろう。
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いずれにせよ,起こってしまったことはどうしようもない。民間企業ならば,「責任をとれ」ということも言えるのかも知れないが,こと大学にあっては,これ以上は不可能だろう。大切なことは,それでもまだ前に進めるか,ということである。
世の中の不条理,他人のミス,他人の無能,他人の無責任,裏切りや悪意。自分の努力や熱意の足を引っ張り,台無しにさせるものなどいくらでもある。もうそんなものに捕らわれている場合ではないのではないか。これ以上,人生を無駄に過ごすべきではないし,それでも前に進まなければ,明日はないのだ。
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いやはや恐ろしい限りである。書いていて背筋が寒くなってきた。明日から無事に生きていけるのだろうか。最後に書いておくが,もちろん以上の話は,完全にフィクションである。
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